『なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)』は、はてなブックマークが生み出した(!)作家・書評家の三宅香帆の近著で、同名のウェブ連載を書籍化したものです。本書は、労働と読書の関係を明治から平成にかけての歴史を通じて探り、最後に著者自身の社会への提言でまとめられています。
本書では、読書に関する「教養としての知識」と「情報としての知識」を区別しています。「教養」としての知識には偶然性や文脈(ノイズ)が含まれるのに対し、「情報」はそれらのノイズが除去され、読者が求めるものだけが提供されると説明しています。この情報に最適化された形式が現在の自己啓発書となっているのが本書の歴史考察で分かります。
高度経済成長期を経て形成された仕事=人生という人々の価値観は、自分から離れた知識=ノイズを取り入れる余裕、すなわち読書をする余裕を失わせる結果となりました。その結果、情報の消費は「仕事のため」や「生活のため」に限定され、教養としての読書は後回しにされがちです。
これに対して著者は「半身で働く」ことが受け入れられる社会を望んでいます。「半身で働く」という概念は、社会学者の上野千鶴子が提唱した「全身全霊で働く」男性の働き方と対比した女性の働き方についての言及です。
「仕事に時間と精神を削られ読書ができないのは当たり前では?」というのがこの本を手に取った読者の第一印象だと思いますが、なぜそのような社会になったのかとそもそも読書とは何かというストーリーテリングこそが本書の幹でありノイズに当たるパートになります。「そもそもこの本を読めない」と上手いこと言った人の意図を掠めとるような巧妙な仕掛けです。
本書を読んで私は「ITエンジニアは休日に勉強すべきか問題」を思い出しました。これは多くのエンジニアが直面するジレンマです。仕事のスキルを維持・向上させるために、休日を使って技術書を読んだり、新しいツールやフレームワークを学んだりすることが業界的に求められる一方で、プライベートな時間を確保し、家族や健康のためにバランスを取ることも重要です。とされているアレです。
この文脈で登場する技術書は教養にあたるとされていると思いますが、行為自体は本書に出てくる自己啓発書しか読めなくなった状態によく似ています。私もプログラマーの職を得てからというもの小説は全く読めなくなり、ビジネス書はそこそこにほぼ技術書しか手に取りません。
また、教養と情報の関係は「低レイヤーを勉強するべきか問題」にもつながります。これは、エンジニアリングにおいて基本的な技術や原理を学ぶことと、目先の具体的な技術やスキルを習得することのバランスをどう取るかという議論です。
これらは答えの出ない問いではあるのですが、本書になぞらえると、実利一辺倒ではなく基礎教養をいつでも取り込めるぐらいの日々の余裕がある環境が大切なんだろうと思います。テックカンファレンスに参加するときなんかは暗ににこういう偶発的なノイズへの出会いも期待しているかもしれません。
本書の「働く」はあくまで会社員の視点であると思います。著者が会社員として働いていたのはIT企業と書いてあり、兼業も認められていたようですから旧態然としたJTCのような会社ではわけではなさそうなので、私の身の回りの人たちが働いているような組織を想像して読みました。
しかし経営者・起業家層は自身が半身で働くのを受け入れないだろうなと、普段の言動を見ていて想像します。むしろ経営者は多読な人が多い。彼らに取って読書はもう仕事=人生の範疇にあるのか。私には分かりませんが。
本書は映画(小説)『花束みたいな恋をした』内のエピソードをメチャクチャ擦ってくるので、まずこの映画を観た方がよいです。私も概要だけ確認して全く観る気のしない恋愛映画の印象だったのですが、かなり面白く鑑賞しましたのでオススメです。