インターネットの人の終わり: pha『パーティーが終わって、中年が始まる』

phaさん(id:pha)が新刊を出したのをたまたま観測したので読んだ。

個人的には2013年の最初の本『ニートの歩き方』以来だったので10年分のphaさん情報を一気に知れてよかった。僕の認識している最後のphaさんは確か練馬のシェアハウスで相変わらず熊野寮にいる大学生のような生活をしていたと思うが、10年もあればあれから色々あってザ・ノンフィクションに出たりバンドを始めたりして四十代の中年にもなって流石の最強ニートもクライシスの最中にある、というのがこの本のテーマのようだ。

phaさんとは旧知の仲であるがあまり接点はない。会ったことが数えるぐらいしかないのだけどなぜか会話量に対して関係性が深く、恩人のようなポジションにいる。葬式とかあったら行けたら行くレベル

当ブログの以下の過去記事に練馬のシェアハウスでの様子が書かれている。読み返してみたらかなり失礼なことも書いてあったが、そんな事をとやかくいうこともなさそうなのがphaさんの魅力である

laiso.hatenablog.com

本書はエッセイの連載のまとめたものであるので、気になったテーマを拾いつつ感想を書いてみる

phaさんと私

phaさんと私は同世代で価値観が似ているという共通点はありつつも、対極的な面が多い。phaさんが仕事を辞めインターネットコミュニティに入り浸りになった途端に私は逆にプログラマーとして就職しソフトウェア開発の世界に籠るようになったり、独身を貫くphaさんとは逆に家族を持ったり、果ては今は居住国までお互いが入れ替わっている。

このように似ているが選んだ人生や環境が全く異なる人というのは、自分のIF世界を覗くようで面白い。

中年が始まる

二十代だったphaさんがいま四十代になって心境がどのように変化したのかという話が書かれている。気力がなくなったという当然の感覚を述べているものの、ただphaさんは若い頃からかなりのエリートダウナーだったからスタート地点もかなり低いと思う。お互いに「自分は気力がない」という日記を書き合うだけのやる気があるのかないのか分からないコンセプトのグループに参加していた

そして死が身近になったことで逆に死について向き合うことで自己表現をしなくなったというのは自分のことを言われているようでむず痒かった。確かに中年を迎えると死ぬ人や殺される人や死亡説が頻発する人など多種多様な死が寄り添ってくるのであまり自分を飾る手段としては使わなくなった

そして、ここ最近としてはシェアハウスを解散したのが大きな出来事だと思う。私とphaさんの決定的な違いは、シェアハウスやイベント開催などのような、場を作り人を集めるプラットフォーマーであり、常に周りにたくさんの人がいる(ただし私はあまり関わり合いになりたくないタイプの人々)という印象だったのでこのニュースは意外だった

他に気になったのは「周りに若者が増えた」という話だ。phaさんも実績を積みフォロワーもたくさん現れ、そうすると周りの人たちからの期待値も上がっていくのは想像に難しくない。それを窮屈に感じていたかは定かではないが、私の場合は他人への期待値が著しく低いところがあるのでそのギャップに戸惑ってしまうかもしれない

逆に歳をとっていなくなってしまった人たちについても触れられている。Web日記は止まるで書いたようにインターネットで情報を発信し続けるのはハードルが高い。ライフステージによる行動の変化もあるだろうし、シェアハウス界隈は元々生活が不安定な属性の人が多かった(「集まると死ににくい」というような標語で言われていた)

私をはじめ、Webのソフトウェア産業の成長によってたまたま生かされているという人も多いと思う。教育をあまり受けていないが、エンジニリングスキルという名のパソコン名人の特性を持ってたまたま今の高度にソフトウェアが支配する時代に生まれたことで経済的な自由に恵まれている状況だ。ミスター生存バイアス

しかしphaさんは本来的には若い頃から孤独を楽しんでいる風な発言が多いので、シェアハウス時代は生存戦略としても他者と関わらないと生きていけないような状況にあえて身を置いていたのだなと想像する。

ミドルエイジクライシスの悲壮感に漂う本書だがphaさんはどこかこの自分の中年期の気分変化自体もメタ認知して観察している節がある

すべてのものが移り変わっていってほしいと思っていた二十代や三十代の頃、怖いものは何もなかった。 何も大切なものはなくて、とにかく変化だけが欲しかった。この現状をぐちゃぐちゃにかき回してくれる何かをいつも求めていた。喪失感さえ娯楽のひとつとしか思っていなかった。

神田川かよ

ネガティブな語り口だけどどこか他人事でなぜか楽観的で全能感みたいなものがある。その中心にあるのが2000年代に確かにあった「インターネットがあればなんとかなる」という思想なのだ

インターネットの人

本書には2000年代後半からTwitterをはじめとするSNSおよび当時Web 2.0などと呼ばれていた時期の話が出てくる。phaさんが会社を辞め一念発起してインターネットのコミュニティに浸かり出した時期の空気感は私もよく覚えている

当時はブログ界やブロゴスフィアなどと呼ばれるような著名人やタレントでもない一般人が公開するサイトの集まりやつながりを一つの世界として観測することが可能だった。2ちゃんねるがアングラや匿名文化から育ったコミュニティなら、ブログ界は個人のHPの更新がそのまま活発になってつながっていったようなイメージだ。

その特性からか本書にも出てくるが「ハッカー・ギーク・パワーユーザーとしてツールを使いこなしてインターネット上の市井な発信を吸収しまくるのが知的でエッジでかっこいい」とすら思われていた

書き手としての参加者が今と比べて段違いに少なかったので、特別なアイデンティティを持ってそこに参加して「インターネットを通じて何か活動をしている人」というポジションが取りやすかった。

今となってはネットにおけるSNSやスマホを使った情報の読み手と書き手は爆発的に増えているので、ある特定の記事がバズったとしてもサイトや書き手を個別で認知するような機会は減ってしまった

公共空間として見るとインターネットを通じて何か活動をしている人は参加者のひとりであり「何か面白いこと」の話題自体と、それをフォローする自分のネットワーク上の近い参加者のうちの誰かにつながるというイベント、に集約されてしまった

ただ十代の動画配信者とかを観ているとまだそういう雰囲気が残っているのでアラフォー テキストインターネット言論空間に拘りがちという傾向なのかもしれない。一説によるとVR空間にはエルドラドがまだ残っており、米国でのVRデバイス普及率も近年伸びているので新たな時代の到来を期待している人たちがいるらしい

私の過ごすWebのソフトウェア業界でも「インターネットが好き」という合言葉のような共通価値観がある。これも現在からみたら「水道が好き」のような違和感のある言葉だとしばしば言われているが、この言葉の中にもWeb 2.0当時の時代感やその場を過ごしてきた自分たちを懐かしむような喪失感を覚えるような感覚が今となってはあるよねいや俺はある

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